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続 インターネットから考える

木曜日, 1月 08, 2015
前回はインターネットと社会の繋がりの変遷ついて超ざっくりとですが触れてみました。
「2ちゃんねるはどうした!」とか「おれのmixiはよ!」とかキューレションやバイラルメディア、ネット選挙解禁などなど…もろもろ理解しているつもりですが、その辺は想像力で補完していただくとして、ぼくが言いたいことはただ一つ。
「もうネットも登場から20年経つんだから成熟(成人)すべきでは」ということなんです。これには当然のことながら、使う人間がそもそも自立や自由を認識し、かつ行使している必要があります。そもそもの現実をアップデートしない限りネットもアップデートしない。それだけ技術的な側面から見れば成熟というか現実と変わらないレベルにまでネットが普及したということの裏返しでもあります。

そこでちょっと考えてみたいと思います。
まず現実といっしょならば、『公共とは何か』ということについて考えないといけません。
インターネットを単に情報を集めるツールとして捉えると、凄く大きな図書館と大した違いがないのかもしれない。当然ながら図書館に入るのに資格はいりません。図書館は住民なら誰にでも利用できるのが基本ですが、なぜか武雄市図書館のような多くの人を呼ぼうとするやり方は嫌う人もいます。これについては色々な考えを膨らますことが出来ますが、ここではあえて踏み込みません。しかし、その意味で誰にでも検索出来るツールとして使えるインターネットが便利なことは間違いない。
他方で、インターネットの魅力は双方向性(インタラクティビティ)だとすることにしましょう。
双方向になるということは、あらゆる利用者が、その土台の上に乗ることになります。これはネットなので物理的な制限は見えずらいですが、満員電車に乗っていることと本質は変わりません。電車は公共の乗物です。閉じ込められた空間の中にいると感じると、心理的に細かい差異が気になったり排除的になったりする人があらわれたりします。しかし現実には自分と近い人だけではなく、小さな子を連れた人、酔っ払い、歩くのもおぼつかない高齢者や障害を持った人もいます。だから仕方ないながらも、その空間を共有し喧嘩になったりしない処世術を、常識として身につけておく必要があるはずです。
しかし、近年ではこのようなことにさえ「嫌いだと思う人を嫌いだと言って何が悪い。」みたいな意見が、ネットを使って可視化され現実にも現れてきています。アジア諸国では自動車がぶつかりそうになりながら走っていますが、運転手をみるとのほほんとした顔をしている。他方で整然と運転している日本人は運転しながら怒り狂っているという話を聞いたことがあります。つまり精神的な余裕がないんですね。そして余裕がない人たちが新しいことを生み出すこともまたない。だったら忙しくし過ぎる生活を改める以外に方法はあるんでしょうか。これからは「する時間」より「しない時間」の重要性が問われているんだと思うんです。また、しない為に何をするのか考える時間を取ることが必要なのではと思います。本来その為にテクノロジーや進化って必要なんじゃないかなと思っていたので、上記のような人間の生活を考えることと、インターネットやテクノロジーの未来について考えることと、ぼくの中では同義なんですね。

さて、ネットから始まり現実に着地した今回の話は、これからも追って行きたいテーマなので、また続きを書いてみたいと思います。たらーんと読んで頂けたら幸いです。
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