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古舘伊知郎と「空気」

火曜日, 7月 15, 2014

 AERAに載った古舘伊知郎のインタビュー記事が話題になっている。上記リンクはその一部を取り上げた記事である。それを受け、この問題と日本の「空気」とテレビのこれからの流れについて深堀りしておきたい。今年の1月にはテレビについてはこんな記事も書いているのでよかったら読んでみて欲しい。

 まず「テレビはウソしか伝えていない」という現象がなぜ起きるか理由は、端的にいうと「空気」に支配されているからである。テレビがダメになった理由として、時代の要請としてコンプライアンス厳守になったから云々という意見もあるが、それらの人が本当にコンプライアンスを理解しているのか不明だ。コンプライアンスというのは応じる、従うという意味だからである。もし法令遵守という意味で使っているのなら、コンプライアンス オブ ローと呼ばなければならない。これ自体は今年の初頭に辛坊治郎さんの講演に行ったときの受け売りである。むろん法令遵守は履行すべきではあるが、従うという意味ならその命令主体の存在がそうした議論からは外せないはずである。しかし、なぜかこの記事にも出てこないのだ。

 なぜ今回この話題を取り上げたのかというと、これは昨年何冊も読んだ日本の「空気」に接続出来る話だったからである。コンプライアンス厳守が悪いとかそういう単純な話ではない。命令や指示を出している主体には中心がない。これが「空気」による支配だ。上司がこう思うだろうから、周りにこう思うだろうからと自意識過剰な状態が実際は誰もそんな指示をしていないところに「空気」を生む。だから古舘伊知郎も実際は強制されているわけではないのに、「言いたいことが言えていない」とインタビューで発露しているのである。ポイズンである。それは「自分に勇気がないせい」だと言うコメントも現場で感じているリアルだろう。

 この手の話は製作者と放送者と視聴者がひっくるめてテレビというコンテンツが成り立っているという視点が欠けると、やれコンプライアンス云々という単純な話に回収される。したがって関係者全員が共犯関係なんだと自覚することを始点とすべきだ。関係者全てが白でも黒でもないグレーゾーンの住人という自覚を持つこと。この関係性を記者時代の夜回り共同体の話から始める佐々木俊尚の著書『当事者の時代』は、名著なので是非読んでみて欲しい。

 では、どうすればテレビは面白くなるのか。

 面白くなるという定義が昔のようにテレビの再生を意味するならそれは無理だ。若年層を中心に嗜好が多様化している需要は、既にインターネットが回収している。そして、現に視聴者の平均値は面白くないからだ。たまにバイラルで拡がってポロッとヒットが出てくるだけであろう。そんな中テレビのインフラとしての価値を活かせるのは他に出来ない贅沢に金を掛けたドキュメントなり、ドラマなりで、あとはスポーツなどの生放送である。

 既に段々と経営資源がなくなっていき尻すぼみなテレビ局と、米ネットフリックスがドラマ『ハウスオブカード』でやったようにネット配信専売の豪華コンテンツとのグローバルな戦いのフェーズは始まっている。したがって、インターネットもテレビも互いの利点を活かすような提携をしていく他ない...というのが大筋の流れである。昔のテレビ局全盛みたいな時代はもう来ない。まあ、そうは言ってもテレビは未だマスメディアとして日本に君臨していることもまた事実なのであるが。時代は波のように反復しながら少しずつしか変わらないのだろう。



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